クルマが大きかろうと、小さかろうと...。
スピードがあろうと、なかろうと...。
馬力が大きかろうと、小さかろうと...。
高価であろうと、安価であろうと...。
クルマに乗り操る楽しさは、やはり確実にあると思います。
それは、単にスピードとコーナリングの愉しさが醍醐味というだけでなく、共にクルマと創った一時代の歴史への慈しみこそが、操る楽しさの原点そのものなのではないでしょうか。オーナー自ら選んだクルマに、初めて乗り込み、運転し降りた瞬間から、否応なく共にひとつの歴史を共存して創り上げてゆくであろう"相棒"となっていく。
雨の日も、風の日も、夏の酷暑も、冬の厳しい寒さも、巡り合う様々な事象に対する共感、あるいはトラブルに向かい合い克服していく過程で、積み重なり出来上がる小さな歴史が、オーナーにとっても価値あるものに変貌してゆく...。クルマと共に操っていく唯一の歴史への加担、それが、実はオーナーたる真の醍醐味なのではないでしょうか。
そういう意味合いの一端において、一昔前と今という現代において、若干の歪みが形成されてしまったような気がします。
近年のクルマといえば、究極は自動運転などに代表されるように安全装備等との充実などは、もちろん人を守るという大前提において確かに大切なことと認識しますが、乗り物という概念よりも、ロボットか産業機械に向かうのかと錯覚するような変貌ぶりです。
エモーショナルなものより、性能追求に拍車がかかり、オーバー·アビリティーなクルマが高価になり若者離れを止めるというより、誘発しかねない気さえします。
かって一昔前は、メーカーは何よりクルマという乗り物を操る楽しさを理解してもらい、より多くの人々にそれを体験してもらいたい願いから一心にクルマの開発に注力していたと記憶するのですが...。
クルマ本来の楽しさは、何か別のところにあったような気がします。
なればこそ、ヴィンテージカー、ヒズトリックカー、クラッシックカー、呼び方は多々あれど、1960ー1970年代くらいのクルマたちに格別な魅力を感じてしまいます。(現価値においてむしろ高価ということはさておいて...。)
一人の才気溢れるデザイナーを中心に、クルマへの"想い"を隅々まで具現化できたであろう古き良き時代の産物。ゆえに、よくぞここまで人間性に溢れたものが許され、それぞれ個性を存分に発揮された"傑作"を生み出したものだと感嘆します。
その頃のクルマを運転していた環境も、どこかほのぼのとしていた空気も、いつにまにか先を急ぐ張りつめた余裕のない空気に変わってしまったような気がします。かってのように、人と人、人とクルマ、互いの譲り合いの文化を尊重し、なにかしら原点回帰するのも良しと思える昨今なのです。